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環境めがねで見てみようVol.8 | 藤田 成吉さん

ギリシャ神話「ミダス王」編

2013.1.21 UP

昔話の中には、自然と付き合う大切な知恵の数々がシンボリックに表現されたものが少なくありません。今回は、ギリシャ神話「ミダス王」を題材に、〈環境めがね〉をかけて、昔話に秘められた宝(知恵)探しをしていきましょう。

絢爛たる黄金の中の滅亡

ギリシャ神話というと、あなたはどんな話を思い浮かべますか。なにしろ大神ゼウスをはじめ有名な神々や英雄が目白押しだし、はてさて。でも、「ミダス王」は子どものための世界文学「ギリシャ神話」などでは、「金になったごちそう」か「王さまの耳はロバの耳」のどちらかが定番になっていますから、これはこれでメジャーな物語と言えるかもしれません。
ところで、主役のミダス王にからむのが前者では酒神ディオニュソス、後者では太陽神アポロンですよね。19世紀後半を生きた哲学者ニーチェは「悲劇の誕生」のなかで、ディオニュソスを情動や陶酔、生の横溢(おういつ)などの、アポロンを理性や叡智、秩序などの、対照的な二つの世界原理として論じている。とは言ってもべつにニーチェがミダス王に言及しているわけではありません。が、子どものためのギリシャ神話「ミダス王」のなかに、ひょっとしたら神々の深い配慮が働いているような不思議な気持ちになったりしませんか。
というわけで、ここでは「金になったごちそう」を酒の肴?にディオニュソスの秘められた神慮などを探ってみることにしましょう。

ミダス王は、ディオニュソスの養父である老シレノスが酒に酔ってさまよい歩いているところを助け、十日十夜のあいだ歓待した後にディオニュソスのもとに送り届けました。ディオニュソスは大いに喜び何でも望みをかなえてあげようと約束すると、ミダス王は「私の手に触れるものすべてが煌めく黄金になるようにしてほしい」と。ディオニュソスは心のなかでもっとましなものを望まないものかと悲しみながら、この願いを承諾しました。
ミダス王がさっそく樫の小枝に触れてみると金になり、石を拾えば石が金に、草も土も触れれば金に。お城に帰ると、ミダス王は食事をしようと召使にご馳走を用意させました。ところが王がパンを手に取ると金になる。葡萄酒を飲もうとするとドロドロの金になる。飢えと渇き。困り果てたミダス王は、黄金色に輝く両手をさしあげながら、“この絢爛たる黄金の中の滅亡”から救ってくれるようにディオニュソスに祈りました。ディオニュソスは願いを聞き入れ、「パクトロス河の水源まで行き、頭と体を浸して罪を洗い流すがよい」と申しました。ミダス王が命じられたとおりにその水に浸ると、すべてを黄金に換える魔力は水の中に流れ出ていきました。こうして、パクトロス河では砂金が採れるようになった、ということです(※1)。

錬金術、禊。そして人と自然との共生

さて、この物語を読んでさっそく酔いの回った頭の中をよぎる言葉は‘錬金術’。たとえばシェイクスピアは「ベニスの商人」でバッサーニオが金と銀と鉛の三つの箱の中から一つを選ぶときに、こんなセリフを語らせている。「このけばけばしい黄金、ミダス王も持てあましたという堅い食物の黄金、貴様などに用はない」。こうしてバッサーニオは鉛の箱を開け、莫大な遺産を相続したポーシャをゲットしたんですよね。鉛で遺産(金)付きお嬢様を得たわけですから、ミダス王の失敗に学び錬金術に成功した、と言えなくもない。他方、最近では「金融工学」という名のグリード(強欲)な錬金術が暴走、リーマンショックという百年に一度の経済危機を引き起こしたりして。
では、ディオニュソスが心の中で悲しんだというミダス王の錬金術。「この絢爛たる黄金⇒大量生産・大量消費・大量廃棄型経済活動による飽くなき‘お金’儲けと‘絢爛たる物質的豊かさ’」の中の「滅亡⇒砂漠化、森林や土壌や生態系の損失、処理困難な廃棄物など人類の生存を脅かすような環境破壊、気候変動、文明の崩壊」。‘環境めがね’で見ると、こんな風にカッコの中の事象がリアルに見えてきたりしませんか。余談ですけど、このミダス王の話って「環境経済学」の基本中の基本テキストと言えるんじゃないかしら。

次に思い浮かぶ言葉は‘禊(みそぎ)’。ディオニュソスは、金まみれのミダス王に「パクトロス河の水源まで行って頭と体を水に浸し、罪を洗い流せ」って命じますよね。水の霊力によって俗悪なもの、罪や汚れ(ケガレ)を洗い清める。これっていわゆる禊ですよね。滝に打たれ、清流に沐浴し、身も心も清める。水の浄化力。そして萎れた植物も渇きに苦しむ動物も、水を得れば元気を取り戻す。再生力。尊い水の力への原初的な信仰は、洋の東西を問わないってわけ。
キリスト教の洗礼(baptisma)、この新しい命への生まれ代わりの秘蹟も、ギリシャ語で「浸す」ことの意味だという。今日では頭部に聖水をそそぐのが一般のようだが、12世紀頃までは全身を水に浸していたのだとか(※2)。
ところで、酔いにまかせて脱線しますけど、民俗学では‘お金’はケガレの吸引装置だという(※3)。噴水や泉の中に金貨を投げ込む。つまりケガレとか罪を貨幣に依り付けて欲にとり憑かれた心を洗い清める、というわけ。また、銭洗弁天などではお金をザルに入れて霊水に晒しクリーニングしますよね。これなどはお金に依り付いたケガレを霊水で洗い清め、交換を媒介する貨幣の魔力を賦活させようとしているのかな。
でも、環境めがねで見れば、人の都合で罪や汚れを洗い流すといっても水の浄化能力の範囲内じゃないとダメですよね。浄化できない重金属や化学物質をタレ流されても困ります。ミダス王が罪を洗い流したパクトロス河では砂金が採れるようになったそうだけど、水銀なんかじゃなくて金でよかった。

さて、シレノスのように酩酊してしまう前に「生の哲学」の先駆者ニーチェのディオニュソスへの賛辞を聞いておきましょう。「ディオニュソス的なるものの魔力のもとでは、人間と人間とのあいだのつながりがふたたび結び合わされるだけではない。疎外され、敵視され、あるいは圧服されてきた自然も、その家出息子である人間とふたたび和解の宴を祝うのである」(※4)。人と人の〈絆〉の再生、人と自然との共生。ディオニュソスがなぜミダス王の望みを聞いて悲しんだか、そのわけがこの言葉の中に隠されている、と思う。
子ども向けにアレンジされたミダス王では、食事や水だけではない、王女さま(人間)が愛する父に抱きついてきて金になってしまうシーンもあるけど、何ものをも金に換えてしまう魔力はディオニュソス的なるものの魔力の真逆だってことですよね。

と、これまでお付き合い頂いたミダス王のお話ですけど、実はグラス一杯のワインで酔っぱらってしまう下戸の戯言だったようで、悪しからず。

次回は「創世記:エデンの園」です。乞う、ご期待!


※1 『ギリシャ・ローマ神話』(ブルフィンチ著、野上弥生子訳、岩波文庫、1978年)および『変身物語(下)』(オウィディウス著、中村善也訳、岩波文庫、1984年)の2書の「ミダス王」参照

※2 『ブリタニカ国際大百科事典』(電子版) 参照

※3 『なぜ日本人は賽銭を投げるのか』(新谷尚紀著、文春新書、2003年)

※4 『悲劇の誕生』(ニーチェ著、秋山英夫訳、岩波文庫、1966年)

Prolile

  • 藤田 成吉(ふじた せいきち)
  • 藤田 成吉(ふじた せいきち)
  • 元東海大学教養学部人間環境学科教授。
    主な著書に『環境キーワードの冒険』(日報)、共著に『持続可能な社会のための環境学習』(培風館)、『地球市民の心と知恵』(中央法規)、『ビジネスと環境』(建帛社)などがある。(公社)日本アロマ環境協会(AEAJ)理事。