2014.3.26

香りの存在意義を
嗅覚研究の視点から。

プロフィール

東原和成 教授

  • 東京大学大学院 農学生命科学研究科
  • 応用生命化学専攻 生物化学研究室

’89年東京大学農学部農芸化学科卒業後、アメリカへ留学し化学分野で博士課程を修了、デューク大学医学部博士研究員を経て’95年帰国。神戸大学バイオシグナル研究センター助手、東京大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻助教授などを経て、現職。

嗅覚研究に必要なのは、
幅広い分野からの横断的なアプローチ

‐東原先生が嗅覚の研究をはじめられたきっかけを教えていただけますか。
東大で有機化学の研究室にいた時から、においやフェロモンについて興味はありましたが、きっかけはアメリカ留学中に聞いた「匂いの受容体遺伝子候補の発見」という一大ニュースです。これはコロンビア大学のリチャード・アクセル博士とフレッド・ハンチントンがん研究所のリンダ・バック博士によって発見され、2004年にノーベル化学賞も受賞しましたが、その嗅覚の謎の解明が私の中で嗅覚研究に対する大きなモチベーションとなりました。
嗅覚は、非常に幅広い分野にまたがっています。香りは物質なので化学、香りの情報を受け取るのは脳神経、その効果は生理現象や行動に表れるので生理学といったように、複数の学問にわたって精通していなければならず、非常に学際的な知識と技術が求められます。世界的に嗅覚を研究しているのは分子生物学か神経生理学の研究者が大半で、有機化学出身というのはめずらしいのですが、有機化学からのアプローチが少ないという点は、逆に自分の嗅覚研究者としての強みになっていると思います。

人間にとって嗅覚は、
豊かに生きるための機能のひとつ

‐わたしたち人間にとって、嗅覚はどのような役割を持っているのでしょうか。
動物は五感のどれかを上手く使い、周囲の状況を把握して生きていますが、嗅覚の使い方は動物の種によってかなり違ってきます。ネズミは目が弱いので、嗅覚を頼りに餌はもちろん天敵や仲間、異性や家族を把握します。クジラやイルカでは嗅覚受容体遺伝子がなくなっていて、エコー(音)を使ってコミュニケーションを取ります。人間の場合、目と耳でかなりの状況が把握できるので、嗅覚で生命の危機を察知したり、敵と味方を区別することはほとんどありません。しかし、“食べ物を美味しくいただく”という点で、嗅覚は非常に重要になります。他の動物は栄養を摂ることが目的ですが、人間は美味しさにもこだわります。そこで重要なのが“香り”です。「味がない」という表現がありますが、正確には、「香りがない」ため美味しく感じられないのです。美味しい食事に香りは必要不可欠なのです。
香りのもうひとつの存在意義として、気持ちへの働きがあげられます。アロマ効果などがそうですが、香りが生活空間にあることでリラックスしたり、情動が変化します。そして、これはまだ明らかになっていませんが、私たちはお互いの人間のにおいを感じることで安心感を得ているのだと考えられます。
食べものを美味しく感じ、生活空間で気持ちへ働きかけ、そして人間がまわりにいることを感じて安心するために、香り・においは存在します。私たちは意識していないところでも嗅覚を使って、香りを感じ、健全に生活できている可能性が高いのです。

‐香りの具体的な効果や影響はどのように現れますか。
香りの効果という意味では、個体差もあり、一律にこうなるとは言えません。香りは、病気を治す薬という訳ではないのです。薬は、このセンサーをブロックするとか、このホルモン状態を変えるというように作用点がはっきりしています。香りの場合は、脳に情報が入り視床下部でのホルモン分泌を刺激したり、アロマトリートメントなどでは直接血中に入っていろいろな作用を引き起こしますが、どこにどのように作用しているかはまだはっきりとは解明されていないのです。食べものからバランスよく栄養素を摂ることで健康に生きられるのと同様に、バランスよく香りをかぐことで、適切にホルモンの分泌が促され、情動も整えられ、例えば免疫力が高められて風邪もひきにくくなる。ただし、人によって香りの好き・嫌いがあるので同じように身体が反応するとは限らないのです。

香りのメカニズムを知ることは、
より良く生きるためのヒント

‐最近の研究について教えていただけますか。
最近、ムスクの香りを感知する嗅覚受容体と脳の領域を発見しました。ムスクの主要香気成分であるムスコンは、性ホルモンの分泌を誘発するなど生理的作用も報告されている興味深い香りです。しかし、天然のムスコンは大変希少ですので、その香気を模した合成香料が香粧品などに多く用いられています。一般的に人間のにおいの受容体は400個くらいで、空気中にある多数のにおい分子との組み合わせで感知・識別されますが、ムスコンの受容体は1個もしくは2個と極めて少数です。しかも、情動などを司る脳領域が反応することが分かりました。これまで、ムスコンがどのようなメカニズムで認識され、生理的作用を起こすのかが不明だったため、ムスク系香料の開発は大変でしたが、この発見により受容体に反応する香料のスクリーニングや評価が可能となり、産業的に有用な新規ムスク系香料の開発が進むと思います。
また、これまで食品業界は、味覚や食品の機能性などに着目してきましたが、やはり“美味しいものが作れないと売れない”ので、そのためには香りが必要だということに気づき始め、新たな研究開発がはじまっています。

※記事はすべて取材当時の情報です。

プロフィール

東原和成 教授

  • 東京大学大学院 農学生命科学研究科
  • 応用生命化学専攻 生物化学研究室

’89年東京大学農学部農芸化学科卒業後、アメリカへ留学し化学分野で博士課程を修了、デューク大学医学部博士研究員を経て’95年帰国。神戸大学バイオシグナル研究センター助手、東京大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻助教授などを経て、現職。

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